義母が倒れて、変わったこと
From 杉本
随分以前のことですが、
義母が脳梗塞で倒れ、
救急車で運ばれました。
その日から義母は、身体を自由に、
動かすことができなくなりました。
もちろん前向きな義母は、
わたしたちも手伝うリハビリを、
いやがらず、懸命に行なって、
徐々に身体が動くようになって行きました。
でも時折、元には戻らない身体を、
もどかしそうにしている彼女を見て、
大げさに聞こえるかも知れませんが、
私の人生観が、
随分変わったと思います。
呼吸がスムーズにできる。
食べ物を飲み込むことができる。
自分の足で立って歩くことができる。
体のどこにも痛みがない。
こういうことは当たり前のこととして、
そのときまで、あまり意識したことが、
ありませんでした。
しかし、実は脳からの指令が、
身体の神経の隅々までちゃんと届き、
身体全体がひとつのシステムとして、
精巧に動いてくれて初めて実現する、
素晴らしい現象ですよね。
このことに気づかされてから、
私の物の見方が、
変わって来たように思います。
例えば、
仕事が計画した通りに、
うまくいかず、
いらいらし、
また悩んでもいるときに、
ふと自分が呼吸していることを感じて、
「私は、思い切り空気を吸い、
自由に動くことができている」と、
実感することがあったのです。
この電車に乗り遅れたら、
「顧客との約束の時間に遅刻してしまう!」と、
あせりながら、必死で走っているときに、
ふと、
「まだまだちゃんと走れているなあ」とか、
思ったりするようになったのです。
義母が脳梗塞で倒れたことは、
残念で悲しいことでしたが、
妻は献身的に、
お母さんの世話をし、
家族が一致して、
時間をやりくりしながら、
義母を支えて、
彼女が幸せを取り戻す過程で、
わたしたちもさらに「幸せ」を、
実感するようになりました。
彼女はもうすでに、
亡くなってしまいましたが、
「身体が自由に動いているときよりも幸せ!」
と口ぐせのように、
言っていた彼女を、
思い出すたびに、
「わたしたちの方こそ、
もっと大きな幸せをいただきました」と、
彼女にお礼を言っています。
育自コンサルタント
−自分を育てるお手伝い−
杉本恵洋(すぎもと しげひろ)
自分は今年還暦を迎えましたが、昨年東日本大震災を東京で経験し、出身地である宮城、東北が元気だった当時に少しは、今元気なうちに役に立てないか? と、念じて 4月に早期退職の手続きをして、戻って来ました。 赴任当時は 私の熱い思いとー地元の方々の受け入れの気持ちのギャップに悩んで来ましたが、ある時自分の頑張りがなぜ理解出来ない? というお仕着せ感が強すぎたと考えるようになりました。 それを理解できるようになってからは、お互いのベクトル感が一致するようになり、今はこの復興を急ぐ時代に関われる事への幸福感を感じる迄になりました。 昨年の大震災を人間の脳梗塞と同義に捉えると、これから続く大変さをプラスの方向に考えて、是非 今 復興に関われて行ける幸福感を味わって行けるようになれたらと考えております。
私も今年“母…”が亡くなってから、物事の見方が、随分変わりました…。「亡き母」は、脳梗塞ではなく!突然死でしたし、“意識”が明確でありました事は、今でも当時を振り返りますと不可不思議~~~><今!改めて思いますと「老人ホ-ム」に、入居させて事事態が、【失敗…】だったと言っても過言ではない様です。私は「ホ-ム」に入居する事を、姉妹の中で“相当反対”しましたが、姉が?巧みに「亡き母」を説得してしまったのです。つまり!!騙して【入居…】させて訳なのです~~~ョネ!><「老人ホ-ム」に、入る前は“ケア-(昼間)の集会”があり、そこに行く事が、唯一の楽しみでした。姉は「ホ-ムに入居しても、大丈夫~~よ!そこにも、当然行ける」と言いますから、「亡き母」は納得しまして「老人ホ-ム」に入居しましたが~~~、いざ!入居しますと、そこは「出入りが自由に出来ないとの事」でしたので、母自身「意識」がしっかりしてますから、かと思いきや?まわりは【認知症…】の方が多く“話す相手”が居ないので、殆ど【孤独…】の状態でした。母の処に、行くたびに“体力が衰弱?”してきます母…「亡き母」が、私の処に来る事を【決心した瞬間】でしょうか…?その後から、【体力の衰弱が、急ピッチ】理由は?そこの“食事”を受け付けない様になり、唯“一言”何が入っているか分からないもの~~~ネ!「ホ-ムは永遠性」ではないですから、誰かを“犠牲”にしながら、入れ替えているのでしょうか~~~?更に“母の手”に大きな“アザ”があった事は、今でも気になります。【認知症…】ではないのに、“無理やり”に入れた姉に対して~~~そして!そこに世話した“介護の方達の接待”に、疑問が出来ている現状なのです。その後、私は、仮に加齢?「高齢…」になります時は、自分で何処まで出来るかを、思いますと、常日頃の【生活習慣が大事】と、改めて思い知らされました。今【ダイエット】しておりますが、食事のあり方も、大事な要素です~ネ!更に!昨日「西城秀樹さんは脳梗塞」で、3年前に倒れられたとの事で…最近復帰?写真を見ましたが…やはり「男女の年の差」も、今回は“原因”の要素ではと、個人的には思います。【年齢的に、食する習慣】は、内容が変化してい行きますモノ!!
おはよう御座います。
私も健康で、前向きにトライできる事に感謝しています。
50を過ぎても、ジョギングに行けたり、ビジネスも諦めずに進めている事に感謝しています。これからもいろんな事に感謝して生きていきます。
いつも素敵なお話をして下さる杉本さんにも感謝です。、
お世話なります
私も父が脳梗塞で倒れました
89歳の時でした
リハビリで一時は歩けるようになりましたが年が年だけに
また悪化しました
でも、父は鍼灸師をしていたので自分のことはある程度わかっていたようです
あまり変わらず明るかったです
私自身もいろいろ学ばせていただきまいした
病院は長期入院ができず、次の病院の受け入れ先を探すのを奔走したり
寝たきりになったときの県や市町村からオシメ代の補助があるなど初めて知りました
福祉課の人が親身に相談したりといろんな人に支えられました
自身も経済的な問題など抱えていましたが
父のために動けることでなんの苦にもなりませんでした
94歳で亡くなりました
元気な時に父ともっと感謝して
話すればよかった
ありがとうの言葉だけです
私も102歳の母を 老健に 2日に一度は 往復一時間ほど掛けて見舞っていますが、百歳超えの方々の生き方に 一次は疑問も感じましたが、
元気なお年寄り(90歳前後)と接し 自分(74歳)の未熟さを感ずる事多々あります。
戦後の混乱期を生き抜き 今日の繁栄に導いた 財閥解体と 農地解放が
その原点とおっしゃった方には頭の下がる思いでした。
体が自由で、自由に読み書きできるだけで幸せ 老人から学びました。
当たり前にできるとそのありがたみを忘れてしまいがちですよね。ですが、それらを意識できると感謝の気持ちも増すと思います。
本当に毎日当たり前の事こそが一番幸せなのでしょうね。去年の震災で、当たり前にスーパーで買い物が出来、当たり前にガソリンが買え車に乗る。電気、水、食料が当たり前にそこにある。何と有り難い事なのかとつくづく感じさせられました。今日も私は呼吸をし歩き、話す。笑顔で仕事をスタートします。有難うございました。