【読者投稿】「穏やかさ」は「強さ」ってこと
小学校に入るか入らないかの頃、
私は川で魚を捕まえて、
川原で小さな池を作り遊んでいた。
そこに何人かの、
近所のお兄ちゃんたちがやってきて、
気がついたら池を壊されて、
魚が川に逃げていた。
私は泣きながら父を呼んできて、
怒ってもらおうと父に話すが、
父は穏やかで、怒ってくれなかった。
ヘラヘラ笑っているだけだった。
とてもショックだった・・・。
最近、息子が他の子供たちと遊ぶようになって、
少し上の子から遊んでいる物を取り上げられることがある。
その時息子は、私を見る。
私はヘラヘラして息子を見つめている。
今、昔の記憶の続きを思い出すことができた。
魚が逃げて、お兄ちゃんたちが帰ったあとに、
泣き叫ぶ私のために、
父が一生懸命魚を捕まえようとしている姿を・・。
私は泣き叫び、父に文句を言っていた。
父はたくさん魚をとってくれた。
それでも私は泣いていた。
「強さ」ってことは「穏やかさ」であることを、
最近になって、学ぶことができた。
そして父にその「強さ」があったことが、
今頃になって気がついた。
湯浅
**********
いかがでしたか?
私も「穏やかさ」は「強さ」だと確信しています。
先日も書きましたが、
ドクターモルツも、不幸になる要素の一つとして、
次のように言っています。
「日々、何事についても穏やかに対応することを学ばないこと。」
そしてドクターモルツは、
以下の、「幸せになるための習慣」を身につけるよう、
提案しています。
1. いつもにこやかにしていること。
2. 他人に対して、心からの思いやりといたわりの気持ちを持って接すること。
3. 自分に人とは違う点があっても、それを批判したりせず、寛大に理解して受け入れること。
4. 自分だけでなく、周囲の人たちと一緒に幸せになること
さて、あなたは「穏やかさ」を持つために、
どんな「幸せの習慣」を身につけたいですか?
決めたら、是非教えて下さい。
育自コンサルタント
−自分を育てるお手伝い−
杉本恵洋(すぎもと しげひろ)
PS:
心と身体の「強さ」を証明し続けているマット・フューリーが
5月9日までの期間限定で特別な教えを公開しています。
http://www.drmaltz.jp/mlt/mlt_letter.php?mag=Psycho20100507SU
普段は割とできていると思うのですが、
忙しくて疲れ果てて、精神的にも体力的にもギリギリになっているときにコレをやろうとすると、顔が引きつるのがわかります。
仕事には、わき目も振らずに集中しなければならない時期があります。
だからと言って、そういう時に周囲への心遣いをないがしろにしてしまう自分に対して、自己嫌悪も生まれてしまいます。そういうときは、まず体力を回復すればいいのでしょうか。それとも、キャパシティーの問題?
このお話を読んで、真っ先に浮かんだのは 宮城まり子さんの言葉
”やさしくね やさしくね やさしいことは強いのよ”
おりつさんへ
我が子がかわいいのは皆さん同じだと思います。
取り戻しに行くのは、良いと思います。
でも、簡単に親が介入するのは、いかがなものでしょう?
私が子どもの頃は、”子どものけんかに、親がでるな”という言葉がありました。
子ども同士で解決させよう。という配慮だったんでしょうね。
当然、見守る大人達がいたからできたのだとは思います。
時代が違うのよ。 って言われたらそうなんですが・・・
我が子を守るために、どうしたいのか・・・
盗られたものを取り戻したことで、
今日は我が子を守れたかもしれません。
でも明日は?10日後は?1ヵ月後、半年後、1年後、10年後。
まだ、親が介入しますか? まさか?
でも、親が介入する習慣ができてしまうと、自分では解決しないかも知れませんよ。
極端な話です。 でも、絶対にそうならない。とも言い切れない時代です。
どこまで見守るのか、どこから介入するのか。
その見極め、大事ですよね。
”穏やかにいる”と、”ゆとり”を持って見ていられるようになるんでしょうね。
私は、そう思います。
「穏やかである」ということは「気持ちに余裕やゆとりがある」ということだと思います。
ゆとりがなければ穏やかにはなりにくいのだと思います。経済的・精神的・肉体的なゆとりがあれば何に対しても強くなれるのだろうと思いますし、それを目指したいと思いました。
素晴らしい親子のやり取りの情景が、目に浮かぶようです。
穏やかさは、生き方の基本ですね。
再認識させられました。
ありがとうございます。
「穏やかでいる」ことが「強さ」。そうなのでしょうね。頭でわかっていても、感情がついてかない私がいます。
息子の物を年上の子が取り上げたのなら、息子か親である私かが年上の子にもどしてくれるよう交渉すると思います。これでは、いけないのでしょうか。と、思います。が、。長く生きてくると感情と正義感にまかせて行動しても、そこに解決しない何かが残るを感じ始めています。
年上の子が大事なものを取り上げる→これは何かを象徴しているのでしょうか。パワハラ、DV、いじめ 理不尽な出来事。大事なものを取りあげられて、それを取り戻しに行くよりも大事なことがあるよということを示唆しているのでしょうか?取り戻しに行くよりも大事な事って何なのでしょう???自問してみます。
このメールをお読みになった方のご意見もお聞きしたいです。いろんなお考えが知りたいです。
ドクター・モルツ博士の『 幸せになるための習慣 』について
1)~4)の項目について・・・
特に1)~2)この項目に対しては・・・いつも、ポジティブな感情に」と・・
只今???ing 進行形です。
さて3)~4)に関してですが・・・
随分、昔の事です ・・・ 映画ですが? (海外版)
ある女性が、
貧しい所に、お花を飾ろうという事で・・・
そうすると、そこの人々が、心が洗われて、豊かになると・・・
結果は??
そこの貧しい所の住人は、『嫌がらせをしている!!』と、解釈!!
その女性は、殺されてしまった・・・話
日本でも、貧しい人々にお肉を配ったら・・・と (戦前)
それを実行したそうです。すると、
同じ様に、『 馬鹿にして 』と言う事で・・・
その人も、殺されてしまった・・・話
もう一つは、『 ナタリーの朝 』
大まかな、筋書きは・・・忘れてしまいましたが??
ナタリーと言うある女性は、コンプレックスの塊・・・
ある時、
ある男性から ( 社会的地位もあり、育ちもいい男性 )
君は、2つの花瓶(?)・・・どちらを選ぶの??
一つは、きれいな花瓶 そして もう一つは、形の悪い花瓶 ?
ナタリーの答えは・・・
『 きれいな花瓶 』と・・・
しかし、その男性 ・・・ 『 僕なら、形の悪い花瓶を、選ぶよ 』と
何故なら、その奥にある、本当の花瓶の姿は、とてもきれいな花瓶・・・
僕は、その奥の姿が・・・見えると!!
その言葉が、ナタリーに勇気を・・・与え・・・初めて、この様な男性が、居る事を・・・
この様に人間環境により、物事の捉え方が、違ってくるのでは??
そうなりますと、
理解しようにも、自分たちの目安での解釈論に・・・? 受け入れようにも・・・平行線!!
『 類は類を呼ぶ 』 ・・・
環境的に余裕のある人は、色々な考えが、把握出来ると思いますが?
人間、自分の置かれた環境・知識・・・etc
判断しがちでは、無いでしょうか??
波長が合わなければ・・・そこで、遮断 カット!!
奏しないと、それが、無駄な時間・・・果ては、ストレスに・・・
従って、(4)の、『自他一体の幸せ』は、同じ波長の人には、受け入れられるが??
そうでない場合は・・・ ??
今、今 ・・・ 気づきました。!!
とことん・・・ポジティブな感情 ( 相手を、明るく・楽しく )を持つと・・・
その様な、類の仲間のみが、よって来ますね・・・ ^^
自ずから ~ ~ 集まり来たり !!
りー・ミルティアさん流にて ・・・ レッ ゴー!!
こんばんわ。
日々、いろんな事があって、いろんな人達と接しながら生きていると自分らしくだけでは生きていけないと思う時もあります。
その中で、僕は1日に1回、鏡の前に立って笑顔を作ります。
簡単にできるので毎日やれています。
内面を楽しくするために、外面を楽しくしています。
なかなか楽しく過ごせていると思っています。
この頃、私は息子に対して穏やかではなかったでしょう。
むしろ鬼のように接していました。
自分が悪いと頭では理解していても
まだ4歳の息子に責任として押しつけていました。
本当は感情まかせに怒りたくない…
でも怒らなければ息子は調子にのっていく
もっと寛大になる必要があったのだと思います。
自分を受け入れ
息子を受け入れ
状況を受け入れ
その上で、怒るのではなく、きちんと叱るべきでした。
まだまだ自分の器の小ささに反省
それと息子にゴメン!
去年 こちらのメールマガジンを 受け取るようになったときから、
あきらかに 自分は変わりました。
そのころは いま 生きていることが不思議なくらい 辛い時期でした。
笑うことも ましてや ひとに優しくすることも できないし、相手を受け入れること ありませんでした。
転地した新しい職場にも いろいろなひとがいますが 何故か 余裕で 相手を理解している 自分に 驚きます。
そのうえ 自分の口が勝手に 相手の気持ちを 動かす言葉を吐いています^^;。
もう だめかと 思っていた大切なひととの関係も より深い理解で 継続しているようです。
それが また 自分が 前向きに生きる 力になっています。
今、余裕がないのでしょうか?にこやか(?)に遠ざかっているのを引き戻しにかかります。
この話を聞いて、ふと気が付いたのですが、独身の時の私は今思えば 穏やかで寛大であったようにおもいます。いつも笑顔で、人の役に立てる事が喜びでした、争いごとが嫌いだったせいか、警察にお世話になる方意外は、そこそこ受け入れ認め合って多くの人たちと接してきました来ました。私自身の時間をコントロールすれば良かったから出来たんでしょうね。
見合い結婚して、いくら自分が頑張りたい!何とかしてあげたい出来るはず!と思っても 家族との時間が現われ上手く動けなくなってしまいました。
また、主人と考え方が違い 「人を助けてなんになる!!善人ぶってるヤツは ばかだ!!」「おまえは、馬鹿だ!!」 といわれ
人生そのものを否定されました。善人と言う言葉にもびっくりでした。
私の実家は当然困っている人を助けるのは当たり前
家族は要請もされなくてもお礼が無くてもうごいてました。
お金は無い家でしたが、愛はあふれてました。
助け合いはあたりまえと思っていたからです。
しかし、今の時代には利用されるヤツが馬鹿だ。と言うくらい
悪い人が多くなってきていると、全てを疑うくらいでいいのかな?
自分の事だけ考える人が勝者なのか?
そんな世の中を否定したい自分を押さえながら、
子育てにはピリピリとし 寛大さからは遥か遠いところにきてしまっているなーと感じました。
人を信じる事の大切さと、人を疑う警戒心のバランスが心のゆとりをつくるのかなー?
答えが出ません。
湯浅氏のご子息に接する姿勢は、この出来事だけではなく、
日々の暮らしの中でも、
親として同じような姿勢を貫かれていられるような気がします。
親から子、そして孫へと代々その姿勢を受け継がれていかれるのは、
本当に素晴らしいことだと思います。
父親をお手本として、
ご子息が成長され社会人として巣立って行かれても、
”世の中と上手く対応できる処世術で乗り切られるのでは”と想像します。
「日々、何事についても穏やかに対応することを学ばないこと。」
ドクターモルツ氏の短いお言葉には、深い意味、真実が込められているように思います。
穏やかさを持った人間は、強く、大きく見えると思います。
「ええ、ムカつくヤツ、ムカつくことがあるとイライラします#」
しょっちゅうそんな感じでしたが、
「怒っていることは時間の無駄」と教えて頂いてからは
意識して心を鎮めるようにしています。
現首相の「友愛」、
聞こえは良いのですが、
国同士の関係も、
民族同士の関係も、
まだそこまで進化していません。
実際、他国にカモにされています。それが現実です。
「頭の中がお花畑」と、
「穏やかな強さ」は
また別なのでしょう。
せめて身近な人との関係は穏やかでありたい。
そして人類も進化していかなければならない。
私は3番目の習慣を最も身につけたいです。
なぜなら会社の上役の人に、3番目の習慣を踏みにじるような態度をとられ続けて心底つらい思いをした経験があるからです。
それまで私は、人の意見をじっくり聞くこと(傾聴)をすごく努力してましたが、自分の意見を一方的に押しつけたがる傾向のある人と一緒になったときに、まるでその人の奴隷に自ら進んで成り下がっていくような現象が起きてしまいました。
傾聴はとても大切なことであるはずなのにどうしてこうなってしまうのか・・・としばらくは考えてましたが、やがて自分の信念が無かったからだと思うようになりました。
人と違う点を寛大に受け入れるといっても、それは自分の中に確固とした正しい信念の基盤があればこそ可能なんだと思うのです。
3番目、そして4番目の習慣も、まさにそんな私にぴったりな信念だと感じました。
最高の習慣だと思います!
最近の政治不信が元で、
なんだかよくない気分が続いていましたがもうやめました。
幸せには何も貢献していないことに気づいたからです。
自分の穏やかさを見失わないで人に接し続けようと思います。
おはようございます。
いろいろとこのメルマガから教えていただきますが、
読んでるだけ、で終わってるな(汗)とつくづく思いました。
ついつい攻撃しようとするのです。
攻撃は最大のナントカなんだから、と免罪符を
貼り付けて自分以外の人だけではなく、自分の
心や身体まで・・・。(自傷ではないです、念のため)
自分を守ろうとして、結局自分をズタズタにしてるという
かなしい状況に追い込まれてしまいます。
3の「自分に」というところは特に心がけようと
思います。
幸せになりたいですから!
ありがとうございました。